”あたらしい人間関係”へようこそ

 

社会で仕事というものをしていると、自分の意思とは無関係に組織が変容することがある。今回もそうだ。ともに仕事をするメンバーも相手にする人たちも仕事内容も変わらない。ただ、この現場のトップに立つ人だけが変わる。

「継母」の難しさとはこのようなところにあるのだろう、と思う。既に成立した人間関係の上に、ひとり突然外部から参入し、家族の一員として積極的に関わる必要がある。他の人たちは、お互いにどう接してきて、どう接するのが心地よいかを知っているが、「継母」だけはそうではない。だからといって、「この人はこういう対応を好んでいないですよ」という伝えるのが良いというわけでもない。”あたらしい人間関係”においては、過去の経験が通用しないケースもある。

あまり的を射ない曖昧な例はさておき、うちの現場も”あたらしい人間関係”の中でふわふわした雰囲気が続いている。圧倒的にやりづらい。全員がなんとなく探り合い、これまでとの違いに小さなストレスを抱えている。感情労働的な側面が否めない職種だけに、接する相手の反応も気になる。

トップ交代と同タイミングで、かなり仕組みを変えてきた。このタイミングでしか制度を変えられないと思う。自分がトップに立っても同じ動きをすると思う。既存の城を壊して、一から築城するのだ。すみよい城を作るのである。しかし、両方の城を建設しているメンバーが同一なのだ。工事現場の殺伐とした空気を、現場監督は分かっているだろうか。

ゴールポストの更新:突然涙が出た日

 

同居人が流行り病に感染した。

症状が出始めてから、5日目になる。本人の調子はだいぶ良くなっているが、病院から告げられた療養期間は残り倍近くある。

同居している以上隔離に限界はある、と思いつつ、いろいろと試している。トイレを分ける、こまめに消毒・換気をする。食事は部屋前へ置いて会わない。ゴミは部屋管理。つい先日ようやく高熱が落ち着き、入浴したが、それももちろん最後。洗濯も別にしている。

そのかいあってか、自分の体調はすこぶる良い。熱は全くないし、朝晩のエアコンによる目の乾きくらい。それが心配なので、目やのどを潤わせるように一応の努力をする。換気はするが、冷えないように注意する。毎日何度か、体温を定期的に測っている。特に気になるような体温になった日はない。

保健所がパンクしているという。そうだろう。本人とやり取りができる機会自体が少ないので良く分からないが、「保健所から電話がかかってくる」ということはおそらくもうないのだろう。今は検査もできなくなっているといい、症状がある同居家族などは、診断なしで「陽性」と判断してよいという動きもあるそうだ。よくわからない。

とっくにこの国のシステムは崩壊していた。

症状のある人を特定して、適切に診察を受けて、治療することはできないのだろうか。さまざまな症状に苦しむ姿を見ていると、「ただの風邪」とは思わないが、きっともう少しいい対応があると思いたい。

今のところ症状の出ていない自分は、どういう気持ちでいたらいいのだろう。「濃厚接触者」の認定は受けていない。その判断さえも、私がするのだろうか。cocoaの通知も来ない。良く分からない。

 

誰も正解を知らないので、同じ状況の中でも判断が分かれる。

「念のため」「一応」長く自粛すべきという人がいる。

症状がなく、大丈夫なのであれば、別に日常生活に戻ってもよいという人がいる。

その判断を、皆が納得してくれないかもしれない。

「自己判断」を、社会は受け入れることが出来ない。

 

もうすでにいろいろな所に迷惑をかけている。今後もしばらく全てキャンセルになりそうだ。感染者は悪くない。本人が回復するまで自分も動かないことに文句もない。

ただ、「自粛」「要請」「自己判断」「自己責任」の重さを、本当に理解している人はいるのだろうか。

わたしは2月に入れば、少し動き出せる予定だった。ただ、「念のため」もう少し休むべきという人がいる。「あと少し」「あと少し」「あと○日我慢しよう」という声掛け。数字は毎日変わらない。毎日少しずつ、ゴールポストが遠ざかる。

 

「もうがんばりません」

 

涙が出ていた。

愛用PCはブルースクリーンで彼氏は名前を呼び間違う

 

私は今書いている原稿がある。絶対にこのPCを壊すわけにはいかない。しかもつい先日SPSSの1年間ライセンスを入手したばかりだから、本当に壊れてはいけない。

エクセルでグラフを作りながらワードで文を打ち込み、ChromeでPDFを開きながら作業をしていた。そこでYouTubeを倍速再生してたってのが悪かったよな。PCくんには負荷をかけたと思うが、だからって死のブルースクリーンになることはないじゃん?しかも2回。さすがに2回目は肝を冷やしたというか神に祈った。

自分はPCには弱い方ではないと思っているけど、全然原理は理解していない一番質の悪い奴。とりあえずこうしてPCから打ち込めるようになっているということはつまり回復してくれたってこと。頑張ってくれた。データは消えないよって書いてあったけど、直前の元気だった状態に戻しますと。一体いつのことをいっているのだろう。いつの状態に戻りました?とりあえず原稿は無事だからそんなに前に戻ったわけではなさそう。

直前にSlackで自分宛に原稿のコピーを送っていたのはナイスだけど、エクセルが飛んだら全然意味ない。むしろこっちかもしれない。調べ直しは無理。日頃から何があってもいいようにしておこうな。

 

彼氏が相変わらず名前を呼び間違う。違う人の名前が書かれたメールを送ってくる。仕事だと言って女と会う。自分は1番目らしいけど、扱いは2番目以下なんじゃないかと思っている。ずっと一対一だと思っていたのに、そうじゃなかったと知った2021。昔ほどの愛情は注げない。というか自分の生活を壊してまで愛情を注いでいたとしてもどうせ2番目が存在するんだろうと思う。最初は自分のこれまでや自分の価値が否定された感じがして悔しかったけどもう何も思っていない。ショックは受けるし残念には思うけど泣き叫んだりするような可愛さはない。心の中で距離を取っていく。

ブルースクリーンから立ち直った戦友と、今日も未来のために戦うのみ。

まずは、バックアップをとっておかないと。何事も。

近未来2021年

 
2020年という数字は、1990年代生まれの自分からしても、少し遠い未来だった。
東京オリンピックが2020年にやってくる、という言葉をきいても、現実味がなかった。
そんな2020年を終え、今月から2021年になった。
 
2020年は変な年だった。2月ごろから雲行きが怪しくなり、3月にはすっかり自粛モード。4月になれば緊急事態宣言と、6月まではあっという間に過ぎた。もちろんオリンピックは延期になった。オリンピックを楽しみにしていた人は多くいただろう。選手も、運営も、そして観客も。しかし衝撃的なことは、オリンピックがなくなったことがコロナの象徴になっていないことである。それはコロナ禍が収束していないことはもちろんだが、それ以上に人々の日常が壊れてしまったからなのかもしれない。言葉を選ばずに言えば、オリンピックの心配ができるような余裕のある人はいないのだ。
オリンピックが中止になったのは、1944年第二次世界大戦中のイギリスで行われる予定だったものが最後。日本は1940年の東京(夏)、札幌(冬)を返上した過去がある。理由はもちろん、戦争だった。
今の状況を考えると、世界中から日本に人を集めることは難しく、ましてや感染の中心地である東京で行うというリスクを考え、行うことができない方向に進むのではないかと思っている。放映権の問題など、いろいろあるかもしれないが、それどころではないという雰囲気がある。
 
2020年下半期はGOTOが開始したり(それが悪手だったかどうかはさておき)、学校がある意味普通に開かれていたりして、ふんわりと日常を取り戻したような空気があった。個人的にも前に進むことができた。ちょっとだけ明るくなったような、光が差したような気分は、11月ごろから陰りを見せ、12月に全て消え去った。
 
12月末のある日、東京の感染者数は1300人に達したと報道された。4桁になったことはそれはショックなことであるが、前日から500人以上増えているということの方が衝撃ではなかったか。4月に毎日日記に数を記していた時から、すっかりコロナのある生活に慣れ、数を気に留めなくなっていた。それは、自分の気が緩んだからではないと信じたい。その日その日の数が、そこまで意味を持つものではないと思うようになったからである。
 
コロナショックは、間違いなく教科書に載るだろうと思った。リーマンショックよりも経済的ダメージを受けているというところから、政治経済の分野には必ず登場するとふんでいた。最近では、歴史の教科書にも載るような気がしてきた。
 
安易にこの状況を戦争と重ねることはしたくない。ただ、コロナ禍にも日常があるように、戦時下にも日常があった。毎日ラジオから流れる戦局を伝える放送に耳を傾けた人が居れば、またいつものことかと流していた人もいたはずだ。国の行く末や世界の行く末を案じながらも、自分の明日の生活を悲観した人はもっと多くいいたはずだ。目先の学校や仕事の有無を気にしなかった人はいなかっただろう。そうした意味で、過去にもっと真摯に向き合う必要があると思う。
 
ある政治学者が、コロナ禍における日本の政治の動きを受けて、「日本が戦争に負けた理由が分かる」とコメントした。これに賛同したとみなされるのはいささか躊躇いがあるが、その真意は分かるような気がした。
 
また緊急事態宣言が出るかもしれないという。そう、今は「緊急事態」なのである。
感染も怖いが、何よりもこの宣言によってより経済が落ち込み、世の中が疲弊するのが容易に予想できる。たぶん、自分の仕事もしばらくは休みになってしまうだろうが、あの時もらえていた保障が続くとも限らない。病気以外の理由で命を落とす人が多くなると思う。私も、そうなるかもしれない。
 
「2021年は明るい年にしたいですね」
 
ほとんど届かなくなった年賀状に、何度も記された言葉だ。
私も切にそう願っている。
でもそんな日が訪れない可能性もあるのだ。
 
絶望しないために、空を見上げた。
 
2021年1月4日 記 

国立のスターバックスと、バスのあの子たち

 

高校時代を過ごした国立に、手話で接客を行うスターバックスができたと聞いた。率直に、「国立という街ならあり得る」と思った。

 

国立。

国分寺」と「立川」の間という、なんともつまらない名前の由来を持つ、小さな市だ。東京のやや西側にある。読み方は「くにたち」。全国的には別に有名でもない街だろう。しかし国立は芸能人が住んでいると噂されるほどの高級住宅地だ。駅前のスーパーは「紀伊國屋」だし、私立小も多い。学園都市と呼ばれ、小中高大と多くの学校が立ち並ぶ街である。道を歩けば、見えるはずのない「気品」があふれる。

そういう街だからこそ、手話のスターバックスは何の抵抗もなく受け入れられるはずだと直感した。

 

国立駅から谷保駅に伸びる一本の道を「大学通り」という。春は桜、冬はイルミネーションの美しい通り。その大学通りを通るバスに毎日乗り、学校に向かっていた。

バスの中はいつも人でいっぱいだった。サラリーマンはもちろん、キャリアウーマンらしき人、ギターを背負った学生の姿も多く見た。私はバスの一番運転席側の少し高い席に座ることが多かったから、たくさんの人の降車する場面を見てきた。

パスモをタッチしたときに「特」が表示されることがある。割引運賃の人たちだ。たいていは、障害のある人たちである。案外多くの人たちがそうして降りていくのを見て、世の中にはたくさん障害のある人たちがいることを知った。ただ、それぞれに生活があり、それぞれに日常があるだけであるから、だからといって何かが変わったわけではなかった。

おそらく終点までいつも乗っているのであろう、小学生くらいの子どもをよくみかけた。大人しい子たちだ。先に男の子が乗っていて、途中のバス停から女の子が乗ってくる。同じ学校に通う友人らしく、決まって隣に座る。同じバスの中には制服の小学生を見かけるが、その子たちとは違う学校だと分かった。その子たちのように騒がしくはなかった。それもそのはずだ。会話は手話で行われているのである。あまりじろじろ見るのも悪いと思ったが、補聴器をつけていることにも気づいた。怒った顔で激しく手話で喧嘩する姿も見た。少したって、国立からさらにバスを乗り継いだ場所にろう学校があることを知った。

バスを降車するときに、男の子のパスモがエラーを起こした日があった。バスの運転手はその子に声をかけるのだが、男の子はよく聞こえないようだった。その子の特性に気づいている自分が動くべきなのではないか、と思ったときには、女の子が音声言語で会話してトラブルを解決していった。私は驚いた。その子は少し音が聞こえるのかもしれない。勝手なことをしなくてよかった、と思った。降りた先で、少し恥ずかしそうに男の子が手話で話しかける。たぶん、御礼を言ったのだろうと思った。

数年通ううちに、私も、彼らも年をとった。いつからか彼らは隣同士には座らなくなっていた。つん、とした何となく大人びた顔つきを見ていると、少し寂しくもあった。そこからの彼らのことは、私も知らない。

 

国立のスターバックスのことは、様々なインターネットメディアで目にしていたが、しばらく足を運ぶことはなかった。「コロナ禍」と呼ばれ、「自粛」が叫ばれる時代だからである。しばらくたった夏に、偶然国立を訪れる用事があったので、別に喉は乾いていなかったが入ってみることにした。

明るい雰囲気。「STARBUCKS」の文字が、指文字であらわしてある。なんだかよく分からないが、アーティスティックで大胆な壁画もあった。皆がマスクをつける時代だが、店員は口元が見えるようなデザインのものをつけている。耳の不自由な人にとって、口の動きが重要であることを知っている。

喉は乾いていない。しかも、このあと自転車に乗って移動するのだ。少し悩んで、外でも飲めそうな一番小さいサイズの、アイスシトラスティーにしようと決めた。

注文をしようと立つ。笑顔の店員さんが、メニューを指さす。「わたしは耳が聞こえません」。私は大げさに頷いた。OKサインなんかも出して、少し調子に乗った。別にそんなことをする必要はなかった。

まずは、店内で飲むか、持ち帰りかを尋ねられる。もちろん、持ち帰りを指さした。袋や入れ物の確認を指ですませ、注文をこなす。何も問題ない。耳が聞こえないことなど、何も問題ではないのだ。むしろ注文は一般の店舗よりも簡単で、スムーズだったと感じた。その注文を、厨房のスタッフに手話で伝達する。少し年上のベテラン風の店員だ。てきぱきした動きに、しばらく見とれていた。

店員がショーケースを指さし、「一緒にスイーツはいかがですか」と案内される。接客中のさりげない勧誘だ。できるだけ失礼にならないようにと思いながら、笑顔で手を真横に振って「大丈夫です」といった。

品を受け取る。帰り際に手話で話しかけられた。私は手話を少しだけ知っていたから、それが「ありがとう」だと分かった。少しはにかみながら、同じ「ありがとう」を返した。

なんだか晴れやかな気持ちになった。地球環境対策で変わってしまった紙ストローは本当に美味しくないが、気分は最高だった。いい時間を過ごすことができたと思った。なんとなく知った気になるのではなく、ちゃんと店に入って注文してみて良かったと思った。

シトラスティーを飲みながら、店を外側から見る。客同士も手話で会話している姿を見かけた。手話を使うのは店だけではない。手話を使う人たちの居場所になっているのだと感じた。年配の人もいれば、高校生か中学生か、という人もいた。

少し浮かれた気分で、1口程度しか飲んでいないアイスティーをかごに入れ、自転車に乗る。なれないシェアサイクルだ。電動自転車は一歩目が重たくて少々怖い。知らない道を行くので、行き先も不安定だ。でも私には最高のシトラスティーがある。店員にとっては1人の客に過ぎないだろうが、私はとても丁寧に接客してもらった気がして、嬉しい気持ちになっていたのだ。

あの子たちもあの店を訪れただろうか。いるはずのないバスの子どもたちの成長した姿を想像しながら、「サイニングストア」の発展を願った。

段差で少しつまずく。嫌な音がする。少し気分が浮ついている時は、決まってこういうことになる。私の最高のシトラスティーは、道路に吸い込まれていった。残ったのは、少しべたついたドリンク容器と、460円のレシートだった。自転車と道路を手持ちの水で洗い流し、国立を後にした。

 

2020年12月30日 記